文章の良し悪し

昨日久々にブログを書いてみて、懐かしかったので過去ログなんかを柄にもなく再読してみた。すると、何年前と今と言ってることはほとんど変化がない。これは成長していないのか、と一瞬首を捻ったが個人的にはそうも思えない。(あくまで個人的には)


そこで少し考えたのが、私の文章はうまくなっているのかということ。何か特別に訓練したわけではないけれど、何か変わっていないかに注意しながら読んでみる。昔も今も文章的にはどっちも遜色ない。そこまで成長していないらしい。どうしてそうなのか。おそらくそれは簡単で自分の一番解決したいことが解決して無くてそのことに対するヘドロをまき散らしているのは数年前と変わらないからだ。


この数年で、幸運にも同人作業として原稿書きをしたけど、一つして納得の良く文章は書けていない。書かなかったこともあった。書きたくなかったのか、書けなかったのか、書くだけの余裕がなかったのか(何言ってんのこの人)、それは自分にもよく分からないけど一つ思うのは自分で書いていて、なんとなく嘘臭い。自分が書いてるようにみえない。その違和感がずっと文章を書く事自体にコンプレックスを持ってしまう原因になったのかも(もちろん言い訳です。)


最初の問題に戻すと、文章の良し悪しとは何か。それは言ってしまえば、「熱意」とか「熱さ」とか抽象的なものな気がする。だから言ってしまえばここに書いてある自分の文章がちょっと好きだ。どう考えても編集不足で言いたいことをただ垂れ流しているだけの個々の文章はいいと思う。(もちろん、私一人に取って)自分の文章は内に内に向いているな、となんとなく感じていたがそりゃそうだ。これは私が私のために書いている文章だ。


そう考えれば。文章分悩む必要なんて無い。ただし、外で求められるのはまた違う文章。ここに書いているような、文章全体から負のオーラが出るような主成分=ルサンチマンな文章は期待されていない。そこは自覚している。ただ未だにうまくいかない。(本等を読むと多くの人がうまくいってないようだが・・・嘘つけ)


アニメの脚本とは違うんだよな文章というのは。何が違うのかといえば、そこに自分がいるかいないか。アニメの場合は脚本を書くときには大体の設定を決めて、あとは私の妄想でキャラが勝手にこう動く、このキャラならこうする、というふうにチェス盤と駒、作戦みたいなのを互いに想定させてから書き出す。そうすればそこにはもう自分はいない。後迷うとするならば、AとBという選択肢があったときにどっちの可能性もあるな。自分はこの物語をどっちの方向性で集結させたいんだろうとか考える時。


この場合、私が彼らの演出家としてどちらかの選択をしなければいけない。真に勝手なのだがその時私は自分で決めろよめんどくさいと本気で思う。迷わないために設定を必死に考えたのに全くもう。(もちろんそういう瞬間があるから楽しくもあるんだ。ほとんど苦痛だけどね!!!)


話がそれた。


今回の文章の良し悪しっていうのは自分にとってこの文がいいかどうか、それに尽きるのだろう。うん、実にめんどくさい。毎回思うのだがもう少し社会性をいい加減身につけたらどうなのかね私よ。


最後に


徒然なるままにに書いたら30分で1300文字オーバーだそうな。私もやればできることを見せてしまった。さて、またひとつ自分に言い訳ができなくなる。そんな中でもちょいちょい文章書いていこうと思います。おそらくほとんどが自分語りでしょうがお付き合い下さい。