半年前を思い出して今を考える(修正を入れるつもり→追記をもって修正とします)


半年前俺はどうにかこうにか大学に入ることが出来た。そしてそのときの俺は一種の開放感に襲われていた。これは、大学に入れたということよりも、受験という完全に閉塞していた世界から不本意な形でも抜け出せることが大きい。そして大学に入って一番の目的は、学問でもなんでもなく人と交流すること。この一点のみだった。それくらいのこと?と馬鹿にする人もいるだろうが俺にとっては大きな問題。まぁ何せ浪人していたあの一年間は思い出したくないほど人と話してなかったし、それだけ孤独っていうのが嫌いだった。そして少なからず大学に、綺麗なキャンパスライフみたいなものを勝手に想像もしていたので、4月の最初それはもう大学行くのが楽しみだった。



そしてサークルにも入り俺は積極的に交流するようにした同学年の人も、上の人々にも。このときの俺は幸せだったのだろう。自分の趣味もある程度話せる。他人と交流している。俺がまた少なからず他人に必要とされているかもしれないという希望が持てる。これだけでも十分嬉しかった。それまでの浪人時代で完全なお荷物になっていたことを思うとこれくらいのことでも嬉しかった。他人に必要とされないのがこれほど辛いこととは思わなかったからね。本当に死んだように過ごしていたように感じた。ここで俺が何を感じたかって言うと「この感動を与えてくれたサークルの人に恩返ししなきゃ」ってこと。普通に考えたらおかしいかな?だってこの時点でまだ1ヶ月もサークルの人と接してないわけだからやはり急ぎすぎかな?今思うと、俺の中での感動劇に周りの他人をつき合わせる形になっちゃったかな。



さてはて、このときの俺を思うととても偽善的なのだよね。優しさっていうのを盲目的に信じている人だったのです(今もそうかもしれないですけど・・・)。完全に利他的行為と呼ばれるものを普通にしていたのですよね、そんなものは存在しないのに。そしてそれが他人の迷惑に繋がるともわからずに。それのどこが悪いの?って思うあなたへひとつの提案。例えば、心の底から相手に優しくしたいって人が起こす行動と、相手に優しくしておけば自分のポイントがあがるって考えている人が起こす行動が偶然同じだったら、その場合どっちのほうが厄介だと思う?




俺はどちらかというと前者のほうが危険に思うのだよね(今現在ではね・・・)。理由は、その行動が失敗したときの対処。前者の場合だと、その行動を起こした気持ちが正しいものだから認めてくれっていうのが前に出てくるように思える。
後者は、それが失敗しても相手に打算的な気持ちさえ悟られなければ表面的に善行をしたっていう事実が自分にも周りにも認識されるわけだから、作戦としては成功とはいえないけど失敗でもないからある程度簡単に割り切れるのではないか。(なんだかんだいってこういう冷めていると感じさせるような視点は必要だと思う)



さて現在について語りたいけど、半年前が前向きな要因が多くてフルスロットルで前進しているのだとしたら、今現在はそこで見過ごしてきた(目をそむけ続けてきた)ものが表面に色々出てきて人と関わるのを完全拒否している状態です。おそらく俺と長く付き合っている人が見ればまたかという感じなのかもしれない。昔、人に「お前は全力疾走と走るのをやめるその二つしかないからアホなのだ」といわれましたが全くその通り。俺の中の経験則のひとつに「幸せだ、いい状態だというのは俺の場合半年以上は確実に続かない」というのがあってそれがなぜなのか最近ようやく分かりました。最初の頃に加速度MAXで人と接するようにしているのに、その何ヵ月後かには俺はそれまで以上のものを見せようと努力(というか悪あがき)するきらいがあるのだな。




他人から見てみればこれが厄介極まりない。考えてみればすぐ分かる。最初の頃こいつは使える(面白い)と考えたとして俺と接した人はそのパフォーマンスをいつも求める(これはネタから真面目な事まで全て含めて)。そうすると俺はそれ以上のものを出さなきゃいけないという強迫観念に襲われる。最初から全力疾走をしているというのにそれ以上のものが出るのかすら不明であると同時に、そもそも全力疾走はいつまでも続くものではない。そうするといつかガス欠を起こして最初の頃保っていたクオリティーすら発揮できなくなる。このとき相手がどう思っているかは別として俺は焦る。周りの想像以上に焦る。




そのような状態で起こした行動にまともなものなんてほぼ皆無で結果的には回りを困らせるようなことばかり起こしてしまう。そしてこの責任を全て自分に擦り付けて塞ぎ込んでしまう。何せ相手に迷惑をかけるくらいなら自分はいない頬王がいいと思っているような人間だからね俺は(これは自虐でもなんでもなくガチでそう思ってる)。こうして俺が相手に不信感を持ち、それによって相手が俺に不信感を持ち、そうして気づいたときにはもう埋められなくなっている溝がいつの間にか形成されている。




これの厄介なところのひとつは全ての流れが、ひとつのきっかけさえあればあとは俺一人で最後まで進行させしまうことが出来るところだ。こうなると相手はほとんど手出しできないし自分の知らないところで相手は接し方を急激に変える訳だから相手にしても訳がわからない。俺はこのことを今現在でも繰り返し行っている。おそらく次サークルの人と会うとき俺はどんな顔をして会えばいいのか正直分からないところまできている。おそらく一言話をすればその不安はある程度解消されるのだろうけど、今この状態で何かハプニングなんかで俺にまた罪が重なったとしたら間然に拒絶するだろうな。



さて話がずれてしまったので元に戻そう。今の俺は走るのをやめている。あれだけ嫌いだった孤独が友達っぽいのである。こういうとき周りの人に「助けて」ということを素直に言えればこんなにひどい状態にはならないのだろうけど、俺にはそれができない。なぜなら他人は、厄介ごとに巻き込まれたくないと切に願っているから。俺が相談するということはその他人を俺という渦に巻き込むことに他ならない。そして周りの他人は俺にそんな暗いものを求めてないのは自分でもわかる。だから周りの他人は俺の明るい部分(ピエロな部分)を消費すればいいのだ。そのときに裏で仮面を取った俺が苦しんでいようが、それを消費している人には関係ない。そういう部分をいきなり見せられても困るだけなのだから。




今思ったが自分から自分のことを商品のようにしているのに、それで相手に内面を知ってくれというのがおこがましいように感じてきた。


上のように考えられるようになったから、俺は今誰にも相手にされなくても平気なのだと思う。この状態の俺を誰も必要としてないならそれはそれでいいこと。そしてある程度時間が経てばまた俺は人が恋しくなって自分から仮面をかぶるのだろうから。そうしてまた酔ってきた他人に俺は色々なサービスをするのだろう。俺はその対価として一種の安らぎを手に入れてまた自分自身を消費し続けるのかもしれないな。


結局まとまりのない文章になりそうだ。



自分のことを言おうと思うと説明しなければない前提や俺の過去が多すぎて困る。もう少し自分から離れて一般化できるようにしていかないとまだまだだな。それ以前に文体が稚拙すぎるのも問題だ。もう少し硬いような文章を打つ練習もしなくては。