上の追記

もう見も蓋もない話をしよう。昨日の文章で言いたかったのはおそらく「自分の変化のでかさ」だと思う。特に優しさに関しては顕著だったのでそれを伝えたかった。ただ言葉にしようとすると難しかった。自分で納得のいく文章がかけない。更に自分の体験を含めて書こうとすると、俺がこういう考えである前提となっている過去を話さなきゃならないのだけれど、その過去の部分が多くなりすぎて結局何がいいたいのかわからなくなってしまった。



なので簡潔に言いたいところだけ言う。




半年前の俺は優しさは心からにじみ出てくるものだと思ってたし、それが人の心に響くものだと盲目的に信じてた。でもこの半年いろいろなことを経験してそれは違うのかなと思い始めた。その理由は、サークルの人々との関係形成にある。俺は最初昨日も書いたとおり人と交流したくて仕方なくて、それをかなえてくれたサークルにいわばぞっこん状態であってとてもいい状態にいました。おそらくこのときの優しさは心の内側から染み出てくる優しさだと思う。



これが揺らいだのはいつぐらいだろうか。おそらく俺の人懐っこさや目新しさがなくなって一番最初に訪れるマンネリに近いものが生じ始めたときだろうか。俺はそのときに保身のために優しさを用い始めたと思う(それでいて自分は誠意からの優しさだと思ってるからたちが悪い)。この関係を崩したくなかったんだね自分。どこぞの恋愛話のようだ。そしてこのように無意識的にでも打算的に行動してるとその歪みってのはいつか崩れるものでそれが夏休みで崩壊した。



優しさとは何だ?という議論はおそらく答えなんかないし、会ったとしても俺に理解できるような浅いものだとも思えないのであまり考えない。ただし、ひとつの事実としてあるのは昨日も書いたことだが、打算的な優しさでも誠意として内側から染み出てくる優しさも行動としては同じことが意外に多いのではないか?ということである。



この考えに至ったのには「ヨイコのミライ」っていうマンガの影響が少しある。この中でオタクサークルを破壊しようとしてる青木さんというキャラがいるのだが、このキャラとてもいいことを言う。聞く人が聞けば、心が綺麗だからそういうことを言えるのね、とでも言ってしまいそうなとても偽善的な言葉が打算的に使われているのである(しかも主人公は一時的とはいえこの言葉に癒されているのである)。この姿が俺にかぶった。俺の言葉も内に秘めてるものはこの打算的な言葉と大差なのではないかと考えるようになった。



簡単にいや自分の言葉って何?って話だな。俺は言霊とか眼に見えないものは大切にしなきゃいけない(こういう断定は自分の可能性を狭めるのでやめましょう)みたいに考えてるところが結構あるからこういう疑問で頭をぐるぐるさせるのだろう。こういうのを素直に割り切れる人になりたい。打算的に言葉を使いまくっても全然平気なようにならなくては。こういう考えもいけないんだろうけど・・・現状にも満足言ってないしなぁ。



おっとまたまとまりを見せないで自分語りのパターンに入ってしまった。ブログの文章ですら感情を抑えられない自分。嫌いではないけど納得もいかない。さてどうすれば解決するのか。もう少し模索してみようと思う。